『チェコ語の宝(POKLAD JAZYKA ČESKÉHO)』

 書籍版『チェコ語日本語辞典 チェコ語の宝――コメンスキーの追憶に(ČESKO-JAPONSKÝ SLOVNÍK: POKLAD JAZYKA ČESKÉHO: PAMÁTCE J.A. KOMENSKÉHO)』(成文社)の第2版に付けた「あとがき――『チェコ語の宝』」を以下で公開しています。

 

あとがき――『チェコ語の宝』

 

 

「私は息がある限り、決して、この著作の喪失を嘆くのを

やめることはないだろう」(コメンスキー)

 

 『チェコ語の宝(Poklad jazyka českého)』とは、チェコを代表する思想家の一人ヤン・アーモス・コメンスキー(ラテン語名コメニウス)(1592-1670)が編纂していたチェコ語辞典の名前です。コメンスキーは、現在では教育学者として世界的に知られていて、日本でも教育学界にコメンスキー研究者が数人いますが、彼は非常にスケールの大きな思想家・文化人であり、様々な分野で多くの仕事を残しました。中でも、言葉への深い関心から、母語であるチェコ語を守り育てるという仕事と、(母語を基盤とした)外国語の習得を手助けするという仕事は、彼の重要な仕事の一つであり、両者は表裏一体を成していたようです。この分野のコメンスキーの著作のうち世界的に最も知られた『世界図絵(Orbis pictus)』(1658)は、多くの挿し絵を入れて、子供が絵を見て楽しみながら言葉を覚え、世界の様々な事物を理解していくように作られた画期的な教科書で、絵本の源流になったとも言われ、ヨーロッパ中に広まり(日本語訳もあります)、後の時代のドイツの文豪ゲーテ(1749-1832)なども子供の頃に親しんでいました。

 しかしながら、コメンスキーにとって、この分野の仕事のうち、もっと重要で、最も大きなものが、『チェコ語の宝』という辞書の編纂でした。彼は、既に若き日の1612年に――何と弱冠20歳で――この辞書の編纂を始め、資料を集めながら40年以上も執筆を続けたそうです。文字通りライフワークと言って良いでしょう。

 コメンスキーがこれほど辞書の編纂に力を注いだのには、幾つかの理由が考えられます。一つには、それ以前にあった辞書がもはや不十分なもので、もっと新しくて大きな辞書が必要となっていたからでしょう。また一つには、実はこの辞書はチェコ語・ラテン語辞書だったのですが、チェコ人にラテン語の学習の重要な手助けとなる辞書を提供するためだったでしょう。そしてもう一つ、忘れてならないのは、チェコ語を守り育てるためだったと考えられます。

 少し奇異に思えるかもしれませんが、コメンスキー自身が、20歳の頃にこのチェコ語・ラテン語辞書の編纂を始めた目的について、書簡の中で、「自分の言語(つまりチェコ語)をマスターするためでした」と述べているのです。更に彼は次のように述べています。「私は、(チェコ語の)すべてがラテン語の表現と並んで調和するように努力しました。つまり、(チェコ語の)単語、熟語、イディオム、諺、そして格言までが、(ラテン語と)同じ魅力と力強さをもって捉えられるようにです。しかも、どれほど古典的な(ラテン語の)作家でも、私たちの言葉(チェコ語)に翻訳する必要があるなら、まさに(オリジナルと)同じように優美に翻訳できるように、そしてその逆もできるようにするという目的のためにです。」

 このようなコメンスキーの意図を理解するには、当時のチェコの言語状況を念頭に置く必要があるでしょう。当時のヨーロッパでは、まだラテン語が文章語・文化言語として権威を持っていて、コメンスキー自身、ラテン語とチェコ語の両方で執筆していました。圧倒的な古典語・文化言語であり、普遍的な言語であるギリシャ語やラテン語に比べれば、チェコ語は権威のない地方語・民族語に過ぎません。それだけでなく、チェコが神聖ローマ帝国の一部であったというような歴史的・地理的な事情などから、チェコにはドイツ系住民も多く、チェコ語よりも大きなドイツ語がかなり幅を利かせていました。コメンスキーが辞書の編纂を始めたのは、「自分の言語(つまりチェコ語)をマスターするためだった」と述べているところからして、もしかするとコメンスキーは、文章語に関してはチェコ語よりもラテン語の方ができたかもしれません。少なくとも20歳の若者がチェコ語の世界を十分に把握しているはずはなく、彼は様々なチェコ語の表現を収集し、それをラテン語の対応する表現と並べていくことで、自らチェコ語の広い世界を「マスター」し、同時に、ラテン語やドイツ語より劣位にある母語のチェコ語がラテン語に匹敵するような優れた文化言語であることを証明したかったのでしょう。

 しかし、当時のチェコは複雑な宗教的・政治的状況に置かれていて、やがて1618年にプラハから始まった大宗教戦争である30年戦争(1618-48)の時にチェコのプロテスタント勢力がカトリック勢力に敗れた結果、チェコではカトリック以外の信仰が禁止され、フス派から分離したチェコ兄弟教団に属していたコメンスキー(彼はこの教団の最後の最高指導者になりました)は、チェコにいられなくなって外国に亡命し、祖国への帰還を願いつつも、最後は異国の地アムステルダムで客死することになります。そして、ポーランドのレシュノ滞在中の1656年に町が戦渦に巻き込まれ、コメンスキーは火災で家財を失いますが、その際、『チェコ語の宝』の原稿も焼失してしまいました。この時、既に原稿はほぼ完成していて、印刷に回す準備をしていたと言います。若き日から40年以上の歳月を費やしてきたこの辞書の原稿が灰燼に帰したことについて、コメンスキーは、「私は息がある限り、決して、この著作の喪失を嘆くのをやめることはないだろう」と述べていますが、彼の落胆がいかばかりであったかは、想像に難くありません。

 コメンスキーは、『死にゆく母、兄弟教団の遺言』(1650)の中で、先祖から伝わってきたが危機に瀕している遺産を受け継ぐ後の世代のチェコ人が守るべき6箇条を挙げているのですが、その一つとして、先祖から伝わってきた愛しい母語であるチェコ語を守り育てる努力を挙げています。しかしながら、30年戦争におけるチェコ・プロテスタント勢力の敗北、プロテスタントの信仰の禁止と大量のチェコ・プロテスタント系住民の亡命、そしてドイツ語の公用語化、カトリック系ドイツ人とドイツ語の勢力拡大の結果、チェコ語は没落していき、チェコの上層階級や文化人たちはチェコ語を使わなくなっていきました。この間の事情については、チェコの(カトリック系の)イエズス会の歴史家ボフスラフ・バルビーン(1621-88)が、一般に『チェコ語の擁護(Dissertatio apologetica pro lingua Slavonica, praecipue Bohemica)』(1672-73頃)と呼ばれるラテン語の著作において、赤裸々に縷々述べています。しかしながら、幸いチェコ語は消滅には至らず、18世紀後半に始まる「チェコ民族再生」期に、チェコ語は再び文章語として再生し、発展し、現在に至っています。

 ところで、バルビーンが『チェコ語の擁護』を著したのは350年ほども前のことですが、現在、英語が圧倒的な力を持ちつつある世界において、チェコ語のような「小言語」は、350年後にはどうなっているでしょうか? 翻って日本語は、350年後にはどうなっているでしょうか? 350年後にも、チェコ語や日本語を習得する多くの人々がいるでしょうか? チェコ語や日本語で優れた文章が書かれ、それを読む多くの人々がいるでしょうか? 英語だけでは知ることのできない、世界の人々の様々な物の見方、捉え方、考え方、感じ方、表し方は、どうなるでしょうか? 

 コメンスキーが、自らが編纂していた辞書に付けた『チェコ語の宝』という名前には、「チェコ語という宝」、つまり、チェコ語は(ラテン語のような)大言語に匹敵するだけの「宝」のような言語だという意味が込められていたでしょう。同時に、この辞書がチェコ語やラテン語を学ぶ人たちの助けとなる「宝」になって欲しいという願いも込められていたかもしれません。

 この『チェコ語日本語辞典』は、編纂を始めてから世に出るまでに――デジタル辞典化に伴う多くの難しい仕事が加わったこともあり――20年以上の歳月がかかりました。40年以上の歳月をかけたコメンスキーの『チェコ語の宝』の半分にしか過ぎませんが、ほぼ完成していたという辞書の原稿が戦火に焼かれて灰燼に帰し、いわば暴力的な流産によって結局世に出ることができなかったコメンスキーのチェコ語辞典編纂の努力を追憶し、それに深い敬意を払うために、僭越ながら副題にこの名を借りました。このチェコ語日本語辞典が、チェコ語という大きな「宝」の世界を理解する手助けとなり、外国語は英語だけで良しとせずにチェコ語や日本語を学ぶ奇特な人たちにとっての小さな「宝」となれば幸いです。

 この辞典の編纂に当たっては、チェコ関係の教え子や知人たちなど、チェコ語とチェコ文化への関心と熱意のある人たちに手伝ってもらいました。彼らの手助けがなければ、この辞典が世に出るのは、まだ何年も先になっていたことでしょう(それまで編者が生きていたとしても)。辞書編集部を備えた大手出版社が出すメジャーな言語の辞書のように、非常に目ざとい校正者たちが何度も綿密な校正を重ねるといった態勢は取れなかったため、この辞書には誤りや不適切な点も少なからずあるかもしれませんが、可能ならば版を重ねて改良し、この辞書を「育てて」いければと考えています。

 

2019年 編者 

 

 Dobrý den, vážení kolegové, já jsem japonský bohemista Tatsuo Ishikawa, profesor Senshu  univerzity v Tokiu. 

 Budu číst za prvé Kšaft umírající matky jednoty bratrské z roku 1650 a za druhé List Petru Montanovi ze dne 10. prosince 1661, ve kterém píše Komenský o svém Pokladu jazyka českého, totiž česko-latinském slovníku. 

 Jak víme, Komenský stále velmi pečoval o svou mateřštinu a její tříbení. V Kšaftu umírající matky jednoty bratrské píše svým potomkům, aby pokračovali tu péči o češtinu.

 Co se týče češtiny, Komenský sestavoval česko-latinský slovník, kterému dal název Poklad jazyka českého. K našemu velkému údivu začal tuto práci už zamlada, ve svých jednadvaceti letech a pokračoval až po čtyřiačtyřicet let! Tento Poklad jazyka českého by byl jeho životným dílem. Ale válka spálila celý rukopis, jeho dlouholetou práci v popel. O tom píše Komenský v listu Petru Montanovi, že „Té ztráty nepřestanu litovat, dokud dýchám“...

 Oba texty budu číst v češtině a potom v japonském překladu.

 

1. Kšaft umírající matky jednoty bratrské

Odevzdávám tobě také i synům tvým snažnost v pulerování, vyčišťování a vzdělávání milého našeho a milostného otcovského jazyka, v čemž synů mých bedlivost známá byla časů předešlých, když od rozumnějších říkáno, že češtiny lepší není jako mezi Bratřími a v knihách jejich. Ale pilněji se na to ještě někteří vydali nyní, teď z vlasti vypuzeni byvše, aby přihotovením knih užitečných a nad předešlý způsob vybroušenějším perem psaných napomohli synům tvým k uvedení tím snáze všeliké ušlechtilé spanilosti ve věcech i v řeči, v moudrosti i výmluvnosti, k šťastnému vynahrazení podešlého teď zpuštění, jakž by jen časy k rozvlažení přivedl Pán.

 

2. List Petru Montanovi

  Začal jsem r. 1612, za pobytu v Herbornu, abych ovládl svůj jazyk, sestavovat Poklad jazyka českého, tj. úplný slovník, podrobnou mluvnici, ozdobné i výrazné idiomy a přísloví. Jejich pozorným shromažďováním jsem dokázal, doufám, co v národním jazyce sotva kdo. Přičinil jsem se totiž, aby všecko bylo souběžné a souladné s výrazy latinskými: aby slova, rčení, idiomy, přísloví i sentence byly vystiženy se stejným půvabem i důrazem, a to k tomu cíli, aby kdyby bylo zapotřebí kteréhokoli sebeklasičtějšího autora přeložit do našeho jazyka, mohlo se tak stát právě tak uhlazeně, a naopak.

  Když jsem toto nadmíru pracné dílo (stálo mě skoro čtyřiačtyřicet let) už už chystal pro tisk r. 1656, shořelo společně s mou knihovnou, tiskárnou i s celým městem Lešnem v požáru tak nečekaném, že nebylo možno zachránit nic. Té ztráty nepřestanu litovat, dokud dýchám : také proto, že by bylo mohlo být vzorem k napodobení i pro lidi jiného jazyka ; jistě by toho bývalo bylo hodno. Nezbývá z něho však nic...

 

 Ach, vážený pane Komenský, protože Váš Poklad českého shořel v popel, nemohl jsem ho bohužel napodobit. Ale tento Váš záměr jsem mohl napodobit a sestavil jsem pětisvazkový Česko-japonský slovník, na kterém jsem pracoval víc než 20 let, a který byl pávě loni vydán, a dovolil jsem si mu dát podtitul POKLAD JAZYKA ČESKÉHO: PAMÁTCE J. A. KOMENSKÉHO, abychom pamatovali Vaši obrovskou snahu a abychom vyjádřili Vám hlubokou úctu. Byl bych velice šťasten, kdyby přispěl můj slovník k rozšiřování češtiny, Vašeho „milého otcovského jazyka“, mezi Japonci, a naopak japonštiny mezi Čechy, a kdyby přispěl k mezinárodnímu vzájemnému pochopení.

  Váš Poklad jazyka českého zmizel, ale váš poklad, český jazyk, nezmizel a ještě žije, a doufáme, že nikdy nezmizí. 

  Děkuji.